沖縄歴史

沖縄歴史  |

中城城跡にある中城城は、見通しの良い山の頂上に建てられており、沖縄の城の中でも屈指の名所と呼ばれます。この城はいつ築造されたことははっきりしていませんが、ただ、15世紀半ばに最後の城主であった護佐丸が住み始め、中城城を改修、増築したと言われています。
今日では、中城城跡には遺跡だけが残っていますが、よく保存されていて、まだいくつかの要塞に分かれている城を明確に認識することができます。各地形に合わせて高く積み上げた城壁が緩やかな曲線を描いて相次いでいます。城壁は自然石をきれいに積み上げただけにもかかわらず、 400年以上の雨風を耐え抜いています。アーチ型の石門は、沖縄のユニークな石造建築の美しさを示しています。城からは、中城湾とその周辺地域の素晴らしい景色を鑑賞することができます。
中城城跡は、沖縄本島中心部の北にある中城村にあり、那覇から北に約20kmほど離れています。那覇バスターミナルから普天間まで23番のバスに乗り(約40分) 、58番のバスに乗り換えた後、約15分ほどで終点の「中城城公園」で下車します。車で行く場合は、沖縄高速道路に乗って他の中城交差点に出ます。そこからは、標識に沿って中城城跡の近くまで行くことができます。

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平和祈念公園がある摩文仁の丘は、太平洋戦争末期に日本軍の最高司令部が位置していて、地上戦当時、最も激しい戦闘が繰り広げられた所で、米軍第77師団によって日本軍が全滅された歴史的な場所でもあります。太平洋戦争当時、日本で行われた唯一の地上戦があった沖縄戦は、1945年3月26日、米軍の沖縄上陸作戦が開始され、同年6月23日、戦争が終わるまで約3ヶ月間20万人以上の民間人と軍人たちがこの地域で死んで行き、そのうちの半分以上の遺体がまだ発見されていないと言います。

 
平和祈念公園は、国籍、身分、人種を超越して、戦争の犠牲にされているすべての人を追悼するための場所です。沖縄県では毎年たゆまぬ調査活動を通じて身元が把握されると、犠牲者の名前を「平和の礎」に刻銘しています。「平和の礎」とは、その当時死んで行った方々の名前を刻銘しておくところで、現在の沖縄県民約15万人、日本本土の約8万人、アメリカ人1万4千人が刻銘されています。

 
平和祈念公園の敷地内にある平和祈念資料館では、沖縄戦に関する多くの資料が常設展示されており、戦後から日本復帰までの沖縄の沿革に関する資料も沢山あります。公園には広い芝生と池があり、散歩をしたり、ピクニックに来る住民も多いです。

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この琉球村は、築100年を越える、沖縄圏独自の赤瓦の民家を一か所に集め、沖縄の昔ながらの生活風景を再現した村です。特に水牛に砂糖車を引かせてサトウキビを搾って黒砂糖を生成する手法はこの村だけでしか目にすることができない光景です。

 

この村圏内の赤瓦の民家の家々では三線や琉球舞踊を始めとして様々な体験教室が催されています。また、そもそもこれらの民家はいずれも過去に実際に使用されていたものをこの村に移動させてきたものであるため、実際に屋内でくつろぐこともできます。さらに時間によってショーやエイサーを見ることもできます。この他に、この村の圏内を順路に沿って歩いていくと、旧大城家の民家が見えてきます。多くの人は、この赤瓦の民家をバックに記念写真を撮っています。なおこのときに貸衣装を500円で借りることができるので、その時の気分に応じて利用してみるのも良いでしょう。

 

村の出口付近には「うちなー食堂」というお店があります。ここでは「沖縄そば定食」が人気メニューとなっています。11~15時の間は、芸能ショーが催されるため、そのショーをご覧になりながら食事することもできます。一方、女性にはコラーゲンたっぷりの「てびち」が好評となっています。

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